江戸ものがたり

第二十五話 寺子屋の教育−師弟愛による全人格的教育

「日本教育史資料」に載っている寺子屋総数は一万五千五百校であり、寺子屋興隆の気運は宝暦・明和の頃(1751〜1771)から動き始めて、天明・寛政頃(1781〜1800)から漸く顕著となり、文化・文政(1804〜1829)と進んで天保・嘉永(1830〜1853)の寺子屋全盛期に到達した。寺子屋に学んだ人たち(筆子)が師匠の学徳を偲んで建立した筆子塚の調査、研究により、文献に記載されていない寺子屋が多数存在した事が明らかとなった。これらを踏まえると、寺子屋は全国に五万校以上が存在したものと推計される。現在の日本国人口約一億二千万人、小学校の数約22,500校に対し、江戸時代の最大人口が三千万人であるので、江戸時代の寺子屋数の多さが分かる。

寺子屋では6歳から12,13歳の子供に「読み書き算盤」を中心として、年齢別ではなく子供の習熟度による段階的教育を施した。

寺子屋の教育は文字教育を中核とし、寺子の日課の大部分は習字の学習であった。しかし習字の学習はたんに文字を上手に書くと言うことだけではなく、習字を通して、物を読むことを教え、書くことと読むこととを一体として教えた。
この様な方法によって文字が媒介する知識を寺子に収得させたのである。
総じて寺子屋における指導法は個別式で、教材を精選し、僅少の教材を反復練習させる方式であり、その子供の性別・年齢・親の職業を考慮して師匠が決め、子供の習熟度、理解度に応じた「個別教育」を施した。習字の学習は手習いを通して寺子の人格を育成するものであり、習字を通して人格を高め、個性的な人間を育成する事にあった。「書は人なり」とはこれらの一端を表した言葉である。また寺子屋教育は躾をも果たし、師匠の人格と情熱にあふれる教育によるところが大きかった。 


寺子屋における教授の方法は、師匠が高座に構え、寺子は一人ずつ(大きな寺子屋では前、左、右から4・5人ずつ)その前へ行って書き方と読み方の指導を受け、のち、自分の机へ戻って自習した。師匠は寺子の自習の間、机の間を回り、寺子の手を取って運筆を訂正し指導した。川柳に「師匠様子供におぶさって教え」とその情景を詠んでいる。
寺子屋においては学業の進んだ兄弟子が師匠の補助をして師匠の替わりに新参の子供の手を取って、墨の磨り方、筆の持ち方、運筆の順序、書く時の姿勢などを教えた。この様な生活を通して寺子の間には兄弟子・弟弟子の密接な関係並びに秩序が生まれた。一人の師匠が百名内外の寺子の教育に当たる事ができたのもこのような兄弟子の協力があったこそである。

「師匠様かしこと以上別に置き」。師匠は男女別に席を決めていた。手紙の結語は、女は「かしこ」で、男は「以上」と書く習慣があったので、その結語で男女を言い表したもの。

  余談ながら七歳から「男女の席」を分かつという考えは、いわゆる「礼記」の「男女七歳にして席を同じ  うせず」によっていますが、特に中国の「席」は「ござ」や「むしろ」の類で、一枚で四人座るようになって  おり、しかもそれが寝具代わりにもなっていたため、同じ「席」に男女がいっしょにいてはならないとされ  たのでした。

寺子屋とは「庶民が日常の生活において最小限度必要な知識、技術を授けるための庶民の教育機関」との定義がある。江戸時代は「日常」そのものが高度に情報化され、生産者と消費者とのコミュニケーション、為政者と庶民とのコミュニケーションが「書」を通じてなされた。
寺子屋で子供たちが使っていた教材は「往来もの」と呼ばれましたが、往来とは「往復一対の書簡」を意味する。現実に営まれている生活の中で使われているさまざまな書簡、書状さらには法令類を習得し、数値でものごとを共通認識しなければ、江戸時代において生活そのものがなりたちませんでした。
その前提は庶民が「読・書・算」の能力を身につけることであり、その根底を寺子屋が支えました。
寺子屋での初等教育は実用教育が原則で、「読・書・算盤」と生活するための基礎教育に徹していた。「読・書・算盤」の基礎の無いところに高度な学問は決してないとの考えかたが基本にあった。
寺子屋は庶民の生活に密着したものであり、根源的な需要に合致するものであったから存続し繁栄もした。寺子屋は個人宅を教室代わりにしていたため、非常に家庭的であり、師匠宅と寺子の家庭との間に家族的な交流が頻繁に行われていた。

寺子は五・六日目ないし十日目に清書をした。清書の批正は師匠の重要な任務であった。川柳にも「師匠様、一日釘を直してる」とある。
師匠は清書を朱書で訂正したり、圏点をつけたりして、大極上々吉、大上々吉、絶圭、大佳、佳佳、佳とか上、中、下とか天、地、人とかのような評価段階によって評語をつけて寺子に返した。そして優秀なものは室内に張り出して鼓舞激励した。

試験

寺子屋では試験を浚(さらい)といい、浚は月末や年末に行い、前者を小浚、後者を大浚といった。一般に習字、読書を通じて行い、手本や教科書を師匠に預けておいて、暗書、暗読させた。「大浚小浚、手本とられて泣き浚」とは寺子の苦心をうたった当時の川柳である。
試験の結果、優れた者には吉書並びに諸往来などの褒美を与えた。

手習教訓書

寺子屋には現在の「児童心得」のような「掟書」があり、これを守るよう教導した。
現存する入間郡名栗村上名栗字細ヶ谷、中村忠太郎氏蔵、天明二年(1782)の「手習仲間法度書」によれば、三十一箇条にわたり、寺子の学習生活、日常生活において心得るべきことを具体的にしめしたもので、生活時程、学習生活、通学途上、金銭無駄遣禁止、防災(火の用心)、友達間の交際、勝負事禁止、来客に対する作法、清潔、清掃、立居振舞などに関する心得が示されており、師匠の側からは指導の指針であり、寺子からみれば生活上の守則であった。この手習教訓書は、習字手本の後に併せ記されたものであった。
また手習教訓書の終わりに「奉納天満大自在天神宮」と書かれているものは、寺子屋においては天満天神をその守護神とし、学と徳との成就を天満天神の神徳に仰いだことによるのである。

賞罰

賞は一般的には
−特に善い行いをした寺子
−欠席少なく勉励した寺子
−清書や浚などで成績優秀な寺子
に与えられ、その種類は
−賞詞
−賞状
−賞品(筆墨、半紙、扇子、往来等)
などで、賞は多くの場合、学業を奨励し、学習意欲を高める手段として用いられた。この様な賞によって学習意欲を高める方法は、明治以後の小学校にも優等賞、努力賞(賞状や賞品)の形で継承された。


−不品行で他人を妨害する。
−怠けて学業を勉めない
−喧嘩争論をする。
−他人を欺いたり、盗みなどをする。

以上のような場合に加えられたもので、その種類は

−起立させておく
−机上にすわらされる
−線香に火を転じて持たせ、燃え尽すまで直立させる
−水の入った茶碗を持たせ、こぼれれば一層罰を加える
−留め置く、親や近所の者が貰い下げに来る
−縛り上げる
−ちょうちゃくする
−掃除を課する
−机を背負わせて帰宅させる
−登山(入学)を停止する

寺子屋における罰は、一面苛酷な点もあったが、師匠と寺子との情誼に満ちた結びつきの上に行われたので、罰せられても師匠に反感をもつことなく、かえって感謝の念に満ちて自己反省がおこなわれ、人間形成に役立った。雷師匠と呼ばれた厳格な師匠がより尊敬され、その寺子屋が繁盛したのも、この様な雰囲気と人間関係によったものである。また、師匠が累代の世業で親も子も同一師家の教育的恩恵に浴した場合が多かったので、生活指導はよく徹底した。寺子屋師匠の教育は人格による指導であり、知識と金銭との関係ではなく、物質的関係を超えた教育愛による指導であった。
寺子もまた師匠を尊敬し、童子教の「弟子七尺去って、師の影を踏むべからず」の通り、尊師の美風が横溢しており、師匠と弟子、両者の尊敬と信頼の人間関係の上に教育が行われた。

行事

寺子の日々の学習は反復練習が多く、現在のように興味に訴えて楽しく学習する面よりも、忍耐努力による学習の面が多く、必ずしも楽しいものではなかった。寺子屋の行事は、これらの単調な学習生活に節をつけ、寺子の生活を段階づけて、行事を契機として、次の段階の学習を盛り上げる役割を果たしたのである。寺子屋の行事は書初め、七夕、節句など庶民の習俗的、社会的行事と関連したもの、競争に訴えて手習いの上達を奨励した席書、その守護神である天満天神を祭る天神講などがその主要なものであっ
た。

−書初
 
  書初は吉書とも称し、各寺子屋で行われ、一般には元旦より五日頃までの間に行われたが、地域によ
  っては年の暮に書いたところもあった。

−席書

  席書は毎年二回(四月、八月)習字奨励の為に寺子に席上揮毫させた行事である。寺子に即席に文字
  を書かせ、その結果を展覧して成績を競う行事で、いわば競争に訴えて寺子の学習意欲を高める行
  事であった。

  席書の日には師匠は裃若しくは羽織袴などを着用し、寺子もまた羽織袴など各々分に応じた美衣を着  用した。師匠は寺子を一名ずつ呼び出し、二〜三字より七〜八字までの大字を書かせた。全部の寺
  子が書き終わり、展覧も済むと寺子たちは遊戯などをして歓を尽くした。

−七夕

  七夕は七月の上弦の七日に行われた社会的行事でもあり、また寺子屋における寺子の行事でもあっ  た。七夕の日には寺子は五色の紙を短冊形、あるいは各自意匠を凝らしてさまざまな形に切り、これ  に師匠の徳を頌した文字や手習いの上達を祈る言葉、あるいは師匠から授かった手本などによって   文字を書いて竹に結びつけて七夕祭を行った。
  寺子屋の年中行事の中でも、「七夕」は最も盛んだったが、なかには前日から寺子全員が師匠宅に泊  まり、夜を徹して語り明かし、翌朝は川に行って硯を洗ったり、古筆で作った筏に草花を載せて流した  地域もあった。当日は、師匠から素麺や饅頭などをもらって帰宅したり、また、父兄が酒食を持ち寄っ  て謝恩会を催した所もあった。

−天神講

  寺子屋で天神講を盛大に行ったのは、寺子屋教育において天満天神を手習い学問の神として厚く尊
  崇したことによるものである。
  天満天神は平安末期にすでに書道の神として信仰されるようになったが、寺子屋での学習の主内容
  は読、書、算、とりわけ手習いであったから、手習いの神はやがてその守護神となり、天満天神を信仰  して一心不乱に学習すれば、その業必ず上達し、人格は向上すると信ぜられ、一切の教育は天満天
  神を中心として行われた。
  寺子屋における天満天神の信仰は、単に手習いが上達し、学業が向上するというだけでなく、手習い
  の上達、学業の向上が寺子の人格の向上と結びつき、学問即教育、学習即修養という立場において
  天満天神の神徳が仰がれたのである。このようにして天神講は寺子屋における重要な行事となった。
  天神講の行われた日は菅公死去の日が二十五日であるところから、多くは月の二十五日であり、毎 
  月行う寺子屋もあった。とくに一月と十二月には広く行われていた。
  天神講にはたいていの場合は、寺子が宿の家に米、豆、野菜の類を持ち寄り、小豆飯、五目飯などを
  炊いて、師弟打ち揃って会食し、祭壇を設けて天満天神の画像を掛け、お神酒、菓子、餅などを供え
  て手習学問の上達を祈った。また師匠は祭壇の前に寺子を集めて、菅公の経歴、功績、学徳ならび
  に一般の忠臣孝子の修養講話を行った。

娯楽の少なかった江戸時代、子どもたちは寺子屋の季節ごとの行事をリクリエーションとして捉え、ご馳走を食べ、遊戯、余興、遠足などを行い、天神講では卒業した先輩も参加して、同窓会の如きものを催すところもあった。

第二十五話 完

出展:「埼玉県教育史第一巻1968」
    「日本庶民教育史」石川 謙著 玉川大学出版部
    「江戸の学び」 市川寛明・石山秀和著 河出書房新社
    「藩校と寺子屋」 石川松太郎著 教育社