江戸ものがたり

第十七話  江戸は女性天国−女性一人に男三人−


享保七年(1722)八代将軍吉宗の冶政下、幕府は最初の本格的人口調査をした。それによると、江戸の町方人口は48万3千人余、その内男31万2千人余、女17万余人となっている。女子の全人口に占める比率はわずか35.5%であった。この比率は武家の人口を加えると更に低下する。江戸詰めの武士たちは極く少数を除いて、妻子を故郷においての単身赴任であったから、江戸全人口に占める女子の比率はぐっと低くなり、27%前後だったと推定される。この傾向は幕末になってもあまり変化が無く、天保十四年(1843)の調査でもほぼ同じ比率となっている。つまり江戸は、開府から幕末までの二百六十年間、ずっと“女ひでり”が続いていたと言ってよい。

江戸後期の平均的な結婚年齢は男性で三十歳、女性で二十三歳。離婚率は極めて高く女性の二人に一人が一度は離婚を経験し、五人に一人は三回以上結婚、二十年以上添い遂げる夫婦は四組に一組程度。ここでも女性優位は変わらず、離婚しても次の結婚に支障をきたすことはありません。逆に男性は「あそこの家には、嫁がいられないほどひどい家」というレッテルが貼られてしまい、再婚はほぼ絶望的であったという。
男性三人に女性一人。女性はモテモテの状況であった。

江戸時代には、今で言う花嫁修業として三つの自己研鑽の場があった。
第一に、寺子屋、第二に芸事を学ぶ場、第三に、特に商家の子女が勤める御殿奉公である。

寺子屋では、読み、書き、算盤を基本教科として習い、これらに加えて、茶、活花、裁縫を学ぶ。これが終わると、芸事の師匠に筝曲、三味線、手踊りなどを女性にまつわるたしなみとして習うのが一般的であった。

江戸は政治の中心として、幕臣家族・大名家族が生活していて、日本では初めて広範な大人口の上流社会が成立した。共通語としての標準語の成立、上品な礼儀作法、生活文化、教養、知識、日本古来の伝統、道徳の継承、行動の規範等が定着していった。

このような上流社会のお屋敷に町人の娘が勤めるのを「御殿奉公」とか「武家奉公」と言った。こういった奉公を経て、町人の娘たちは礼儀作法、教養、上品さ等の生活文化を身につけ、やがて町家の女房になる。
大勢の使用人、多くの近隣縁者、奉公人、さらには近隣の娘たちに接し指導するためにはどうしても幅広い教養と高い見識が要求されたわけである。行儀作法はもとより、手芸、生花、茶道、音曲(琴、三味線)といった諸芸も勉強した。こうして、文化年間(1804−1817)には上流社会の作法が庶民レベルにまで普及していた。

文化壱拾年(1813)刊の「都風俗化粧伝」(みやこふうぞくけはひでん)には、肌の手入れ、化粧、髪の手入れ、髪型、歩き方、帯結び、身づくろいなど、身嗜みの全てを紹介している教養書がある。化粧(けはひ)とは気配、気配りで、他人に対して不快な感じを与えないための気遣いという意味を持っていた。

このように女性は自分達の地位の向上に努力を惜しまなかったのである。
ある意味では、男性は仕事に精励し、女性は専業主婦として家の中のこと、子供の養育に専念する分業制が確立していった。
次話で結婚、離婚状況について述べる。


第十七話  完

参考文献
[江戸時代の人づくり]久保田信之著 日本教文社
「江戸生活事典」 青蛙房
「江戸っ子学 知っているつもり」 中村整史郎著 大和出版
「江戸時代 生活・文化 総覧」江戸時代の化粧 高橋雅夫